概要 Overview

理化学研究所 新領域開拓課題「Mathematical Foundation of Quantum Information(量子情報の数理的基盤)」は、作用素環論・量子資源理論・フォールト・トレラント量子計算という3つの理論的支柱を統合し、雑音下における量子情報の根本構造を解明する統一理論の構築を目指す研究課題です。数学・物理・情報理論を横断する統一言語の構築を通じて、量子重力理論への基盤的貢献も視野に入れています。

研究概要 — 21世紀の von Neumann を目指す

John von Neumann は、『量子力学の数学的基礎』(1932年)の執筆や作用素環(operator algebras)理論の創始(1929年)、デジタルコンピュータの von Neumann アーキテクチャ(1945年)など、量子科学の基盤を築いた数々の業績を残しました。近年、量子重力の理論に作用素環論が有効であることが理論物理学者 Edward Witten によって指摘され、「von Neumann は100年先行していた」と言われています。本課題は、この作用素環論の伝統を継承しつつ、量子情報・量子誤り訂正・基礎物理学を結びつける未踏の統合枠組みの構築に挑みます。

量子情報の統一理論に向けて

フォールト・トレランス(コード・エニオン・フェルミオン)、作用素環(部分因子・対称性・相)、資源理論(エンタングルメント・容量・プロトコル)という3つの領域は、量子情報の単一の理論を構成する密接な関係にあります。本課題では、これら3つの理論的支柱を統合し、以下を統一的目標として掲げます。

  • 雑音下における量子情報の根本構造の解明
  • 数学・物理・情報理論を横断する統一言語の構築

期待される成果として、フォールト・トレラント量子計算および雑音下量子情報処理のための一般理論モデルの構築、作用素環を通じたトポロジカル秩序の理解、圏論とテンソルネットワークの統合、情報損失と誤り回復に対する作用素環的基礎付けが挙げられます。これらはいずれも、現在の理論では非現実的で理想化された仮定に依存していたり、既存の手法では理解が極めて限定的であったりする領域です。

ビジョンと具体的研究課題・到達目標

本課題では、「雑音下量子情報の統一理論」という高次の目標を、以下の3層に分解して研究を進めます。

  • (A) 数学的基盤(抽象レベル):作用素環・部分因子環・圏論による構造定式化、量子資源・エンタングルメント・対称性の統一的記述
  • (B) 中間理論(接続レベル):雑音付き量子チャネル・開放系の作用素環的記述、量子資源理論と誤り訂正の統合(非漸近・有限サイズ領域)
  • (C) 応用・物理接続(具体レベル):フォールト・トレラント量子計算の原理的限界評価、トポロジカル相・量子コード・雑音下の量子ダイナミクスの対応関係の解明

課題前半で (A)(B) を展開し、後半に (C) の発展につなげます。ポスドク研究者は (A)(B)(C) のうち2つ以上の層に関わり、各層の連携に努めます。

到達目標

  • 雑音下量子情報の統一的数理枠組みの確立
  • フォールト・トレラント量子計算の原理的限界と設計指針の提示
  • 数学・物理・情報を横断する共通言語の構築

研究計画の目的

数理科学に基づいた量子情報科学の基礎研究により、長期的な優位を目指します。数学・物理・情報の各分野が集結している理研だからこそ可能な取り組みです。

量子誤り訂正符号・量子計算・量子アルゴリズムの基礎には、素粒子理論におけるゲージ理論とよく似た構造があり、トポロジカル物性にも同様の数学的構造が現れます。近年は特に代数トポロジーの手法の有効性が分野横断的に知られており、量子重力・ブラックホールの研究とも関連しています。また、量子開放系(デコヒーレンス、量子情報熱力学、量子リソース)の数理的研究も推進します。

量子情報・量子計算の進歩は極めて速く、その対抗策として数理的な基礎研究には大きなメリットがあります。企業においても Microsoft(Station Q)はトポロジカル量子計算に代表される数学的基礎研究に力を入れており、Quantinuum の研究もこの路線に近いものです。

研究計画全体の概要

本研究の目標は、作用素環論研究の伝統を継承しつつ、量子情報・量子誤り訂正・基礎物理学を結びつける未踏の統合枠組みを構築することです。

具体的には、現実的な雑音下における量子資源の操作や通信の限界を、新たな量子情報理論の数学的進展によって解明し、適応的学習や表現論的手法を用いて、実装可能なプロトコルと最終的な性能限界を導出します。また、大規模量子計算に不可欠なフォールト・トレランスの本質的起源を探るため、トポロジカル相・量子コード構造・雑音動力学の関係を体系的に研究し、混合状態のトポロジカル秩序、フェルミオンやマヨラナ系、次世代量子LDPC(Low-Density Parity-Check)コードの解析を通じて、低オーバーヘッドで本質的に保護された量子系の設計指針を確立します。これにより、フォールト・トレラント量子計算および量子重力理論への基盤的貢献を目指します。

各チームの研究計画概要

河東チーム — 数学

作用素環論は、量子力学・場の量子論・量子統計力学などの基礎を支える強力な数学的枠組みとして発展してきましたが、量子情報理論との統合は未開拓の領域です。河東チームは、この分断を乗り越え、新たな数理的基盤を構築します。近年、高エネルギー物理における非可逆対称性、凝縮系物理におけるテンソルネットワーク、トポロジカル量子計算などで数学的視点の重要性が拡大しており、数学と物理の第一線で活躍する研究者を結集し、分離されつつあった分野を再接続する点に独自性があります。作用素環を共通言語として量子情報と現代理論物理を結び直すことで、フォールト・トレラント量子計算から量子重力の新たな数学的理解に至る成果が期待されます。

古崎チーム — 物性物理

スケーラブルな量子計算の最大の障害の一つは、フォールト・トレラント量子誤り訂正に必要な膨大なオーバーヘッドです(サーフェス・コードでは過大)。古崎チームは、量子情報が本質的に安定化される物理機構を解明し、それを活用した低オーバーヘッドな量子計算アーキテクチャの設計を目指します。(1) トポロジカル相に着目し、全体構造や対称性、エンタングルメントが局所誤りを抑制する仕組みを明らかにする、(2) 次世代量子コードを対象とし、より良いスケーリングの可能性と幾何構造・雑音・計算資源の相互作用を統一的に理解する理論基盤を構築する、(3) フェルミオン量子計算を補完的アプローチとして導入し、量子ビット写像に伴うコストを回避し操作の簡素化を図る——これらを通じて、保護されたスケーラブル量子計算を目指します。

Regulaチーム — 量子情報

量子情報・量子計算において量子資源を最適に変換・操作する方法を理解することは中心的課題ですが、従来の理論枠組みは解析の簡便さを優先した理想化仮定に依存することが多く、実装から乖離しがちです。Regulaチームは、量子資源操作および量子通信に対して従来手法の適用範囲を拡張し、量子資源の捉え方そのものを刷新する新しいアプローチを導入・体系化します。(1) 適応的学習手法を用いて、既存手法のボトルネックを回避しつつ実現可能な量子情報プロトコルを構成する新しい枠組みを確立する、(2) 表現論的手法を活用し、一般的プロトコルの最適性能および究極的限界を解析することで実用的な性能指標を与える、(3) レニー発散などの確率論的手法の進展を通じて、非漸近的かつ近未来的条件下における現実的量子情報処理を精密に理解する——これらに取り組みます。